死のビジネスマン CIA
世界混乱の元凶 大量暗殺・虐殺集団 CIA関係者の証言
「CIA」 秘められた真実
冷戦の終焉
アルテ・フランス (フランス 2003年)
| 証言者 | |
| 元CIA支局長(1986〜89)ミルトン・バーデン 元CIA支局長(1992〜96)リチャード・ホルム 元CIAテロ対策本部長(1986〜89) デュアン・クラリッジ 元CIAテロ対策本部長(1995〜98)チャールズ・コーガン 元CIAテロ対策本部職員 ロバート・スティール 元CIA職員(中東担当) ロバート・ベア 元CIA職員(キューバ担当) サミュエル・ハルバーン 元CIA職員(ヨーロッパ・中東担当) ピーター・アーネスト |
元CIA長官(1968〜73) リチャード・ヘルムズ 元CIA長官(1973)ジェームズ・シュレジンガー 元CIA長官(1977〜81) スタンスフィールド・ターナー 元FBI長官(1978〜87)元CIA長官(1987〜91)ウィリアム・ウェブスター 元CIA長官(1991〜93) ロバート・ゲイツ 元CIA長官(1993〜95) ジェームズ・ウールジー CIA副長官(1978〜81)国防長官(1987〜89)フランク・カールーチ 元CIA副長官(1989〜92) リチャード・カー |
| 国家安全保障会議 首席委員(中東地域 1977〜79年)ウィリアム・クワンド |
元国務長官(1981〜82)アレクサンダー・ヘイグ 元国務省職員 ウィリアム・ブラム |
| [CIA 秘められた歴史] 著者 ジョゼフ・トレント ワシントンポスト副編集長 ジム・ホーグランド |
元KGB(アメリカ担当責任者) オルグ・カルーギン |
<ジミー・カーター大統領と、スタンスフィールド・ターナー>CIA職員はウソをつくように訓練されている
1976年暮れ、CIAはラジオで要員の募集を始めた。
ウォーターゲート事件や、チリクーデター事件への関与が明らかになり、窮地に立たされていたCIAはイメージアップに必死だった。
こういう放送だ
-- CIAは特別な人材を求めています。あなたも訓練に参加しませんか?我こそはと感じた方は、ぜひ面接申し込みを電話でどうぞ --
カーター大統領は、秘密作戦や隠蔽工作を止めさせることで、CIAの暗い過去を清算しようとしていた。
カーター(当時)「あなた方は政府職員の中でも、誰よりも純粋、潔白、公平、そして正直であるべきです。」とCIA職員の前で演説。
カーターは海軍士官学校で同期の、スタンスフィールド・ターナー海軍大将を新しいCIA長官に任命した。
1960年代の、CIAのスキャンダルについて、議会で証言していたターナーは職員に全く人気が無かった。
カーター「ターナー海軍大将への感謝を今一度、大統領令により重責を担っていただきます。」と記者会見で述べた。
元CIA長官(1977〜81) スタンスフィールド・ターナー「CIA生え抜きではなく、外部からの者だということで、確かに異論はありました。」
国家安全保障会議 主席委員(中東地域 1977〜79年)ウィリアム・クワンド「ターナーが就任したとき、CIAには『コンゴや他の地域で行ったことを明らかにしろ』という強い圧力がかかっていました。CIAの内部には、伝統として、『何も話すな。ウソをつけ。何も認めるな。』というのがあります。しかし、ターナーは議会の公聴会ですべて認めてしまったのです。」
元CIA副長官(1989〜92) リチャード・カー「ターナーはCIAをクリーンにし、体質を改めるために入ってきたのでしょう。」
ウィリアム・クワンド「しかし、CIAは透明性とは正反対で、機密主義ですから。」
リチャード・カー「ターナーは組織を変えようとして、わざと組織が嫌うやり方で圧力をかけました。官僚組織は変革を嫌うものです。」
CIA副長官(1978〜81)国防長官(1987〜89)フランク・カールーチ「上級職員を無視し、下級職員を集めて会合を開くという彼のスタイルは上級職員を敵に回すことになり、問題を生じました。」
ウィリアム・クワンド「CIAは物事をおおっぴらにすることを好みません。しかし、ターナーはウォーターゲート事件以降、機密主義にはムリがあると考えたのでしょう。
フランク・カールーチ「ターナーが入ったとき、CIAは組織があまりにもバラバラでした。特に秘密作戦部はコントロールできませんでした。」
リチャード・カー「彼は秘密作戦について、違和感を持っていたと思います。」
元CIAテロ対策本部職員 ロバート・スティール「ターナーはやる気のある善良な人物です。しかし、他の海軍出身者と同様、人間ではなく科学技術の方を信じるというクセを持っていました。」
スタンスフィールド・ターナー「CIA内部では私のように外から来た人間は、スパイの使い方さえ知らないと言われていました。」
[CIA 秘められた歴史] 著者 ジョゼフ・トレント「ナーナーという人間はとても不思議な男でした。いわく因縁つきの男です。」
ターナーは危うくソビエトに核攻撃をしそうになった人物として知られている。
アメリカに向けてミサイルが発射されたと信じたためのミスだ。
スタンスフィールド・ターナー「完全なミスでした。ミサイル接近中という信号が発信されてしまったのです。実はレーダーにはミサイル接近の信号を手動で入力する仕組みがあります。レーダーを監視する人員の訓練用でした。実際の情報がどう表示されるか、どんな状態に注意すべきかを教えるための訓練用です。誰かが間違えてそのボタンを押すと訓練用の画面が出てきます。しかし、周りに聞けば何も起きていない。誰かがボタンを間違えて押したとすぐわかるはずでした。」
「長官として最悪だったという人も。中にはまぁまぁという人もいるでしょう。私に言わせれば最高でなかったことは確かです。」
元CIA支局長(1986〜89)ミルトン・バーデン「ターナーがCIA長官だった時代は、国民にとってもCIAにとっても良い時代だったとは言えません。」
ロバート・スティール「彼がCIAに与えたダメージは、チャーチ委員会より大きかった。秘密作戦部を崩壊させてしまったのですから。」
<イラン革命>
キャンプデービッド合意(1978/9)
カーター大統領にとって最優先課題は中東問題だった。
イスラエルのベギン首相と、エジプトのサダト大統領をキャンプデービッドに招き、両国の和平合意に成功した。
イラン問題
しかし、イランでは新たな問題が起きていた。
1978/8中旬、CIAはカーター大統領に「イランは革命が起こる状況にはない。その気配も無い。」という間違った情報を伝えていた。
当時、国家安全保障会議の中東担当首席委員はウィリアム・クワンドだった。
国家安全保障会議 首席委員(中東地域 1977〜79年)ウィリアム・クワンド「イランの革命は大きな転換点でした。79年まで、アメリカも他のどの国も、イスラム革命というものを深刻に考えていなかったと思います。」
ロバート・スティール「イランには驚かされました。国務省もCIAもイランで革命が起きるということは思ってもいませんでした。」
元CIA長官(1991〜93) ロバート・ゲイツ「イランでイスラム革命が始まったとき、カーター政権の国家安全対策の副顧問は、CIAにイスラム原理主義について情報は無いかと聞きました。答えは、『そんなものは聞いたことが無い』でした。」と、微笑んだ。
アヤトラ・ホメイニは亡命先のフランスで、イスラム革命について考えていた。
25年前、CIAの計画で政権の座に就いたパーレビ国王を転覆させる計画だ。
スタンスフィールド・ターナー「イラン国王は、国内で問題を抱えても、強力な軍隊と秘密警察を持っていた。暴動が起きても警察を出動させる。必用なら市民を殺してでも暴動を鎮めるだろうと、私たちCIAは思っていました。」
元FBI長官(1978〜87)元CIA長官(1987〜91)ウィリアム・ウェブスター「フランス亡命中のイラン宗教指導者が大規模な革命を企てている証拠は何も無いと、ターナー長官が繰り返し言っていたのを私は覚えています。」
元CIA長官(1993〜95) ジェームズ・ウールジー「実に大きな失敗でした。CIAも他の情報機関も、ホメイニがあの事件で、あのような方法で、あのようなことをするなど、まったく掴んでいませんでした。」
ウィリアム・クワンド「長い間、亡命生活を送っていたホメイニに注意を払った者は誰もいませんでした。」
元国務長官(1981〜82)アレクサンダー・ヘイグ「ホメイニと共にパリで活動していたイスラム指導者たちは原理市議の源となりました。ホメイニがアラブ世界全体に広げた毒に対して、我々は強硬な措置を取れませんでした。」
元CIA長官(1973)ジェームズ・シュレジンガー「世界中に存在する様々な宗教の一派に過ぎないと思っていたのです。」
ワシントンポスト副編集長 ジム・ホーグランド「観察力が鋭く、中東とイランに関する情報分析ではアメリカNo,1と言われていた男はこう言っていました『ホメイニは法王になりたがっているだけで国王になろうとは思っていない。イランでイスラム革命が起きる心配は無い。』」
ウィリアム・クワンド「当時は国王もイランの情勢について、我々と同じ見方をしていました。彼は宗教勢力は時代遅れで扱い易い。買収もできるし心配の必用はないと思っていたと。」
パーレビ国王(当時)「我々は共産主義者の制圧に集中している。その他は重要ではない。」とテレビ局のインタビューで語った。
ウィリアム・クワンド「国王は心配無用。扱い方は心得ている。簡単だと言っていました。」
ジム・ホーグランド「大きな間違いでした。そして、アメリカ政府もまた別の意味で間違っていたのです。」
カーター大統領(当時)「国王の偉大な指導により、イランは不安定な地域における最も安定した国となりました。」パーレビを前に演説。
リチャード・カー「国王やその周辺から話は聞いていましたが、反体制派や政権外からの話は十分に聞きませんでした。」
ロバート・スティール「(駐イラン・アメリカ)大使館にはスパイを始め、ペルシャ語を話す者はひとりもいませんでした。我々はファーストクラスで旅をし、都合のいいことしか言わない首脳陣と贅沢なパーティにふけっていたのです。」
フランク・カールーチ「CIAはイランのイスラム活動家とはほとんど接触がありませんでした。当時の(アメリカの)大使はCIAに反体制派との接触を禁じていたようです。それは大きな間違いです。貴重な情報源を失います。もし反体制派が権力を握ったら、全く接触できなくなってしまいます。」
リチャード・カー「アメリカ政府が他国の国民を抑圧する独裁者を支援し、CIAに反体制派との接触を禁じるとは。諜報機関の意味は、その国の政府に知られずに反体制派と秘密の接触を持つためにあるのです。」
リチャード・ヘルムズ元CIA長官は当時の元駐テヘラン・アメリカ大使だった。
1953年のクーデターで政権に就いたパーレビ国王と親交を深め、秘密警察の訓練や監督も行っていた。
ジム・ホーグランド「ヘルムズは国王に、『アメリカはあなたを支持し、どんな武器でも提供する』と言いました。」
リチャード・ヘルムズ「その後、CIA長官となったターナーとカーター夫人は、国王の婦人に『ガンバッテ』なんていうメッセージを頻繁に送っていました。」
ジェームズ・シュレジンガー「どちらか選択した方が良かったのでしょう。でも、しませんでした。」
ジム・ホーグランド「カーターは、ある日は一方の、次の日は反対側の話を聞くという人でした。その結果、政策はメチャクチャ、イラン革命についてもカーターが『国王はもういらない』と言ったわけではないのです。国王の病気が重いとは知らず、どうすれば良いのか判らなかったのです。」
元CIAテロ対策本部長(1995〜98) チャールズ・コーガン「CIAは国王の病状を知るのがとても遅かったのです。フランスは知っていました。でもCIAは知らなかった。」
ジェームズ・シュレジンガー「フランスが国王が重病だということを我々に提供しなかったことで、失敗はさらに大きくなりました。」
フランク・カールーチ「ホメイニがあのように大歓迎を受けるとは思いませんでした。」
ホメイニがイランに帰国。
アメリカはニューヨークの病院でガンと闘病中の国王に背を向けた。
ヘルムズが病院を訪れたとき、国王には死が迫っていた。
リチャード・ヘルムズ「ガンの治療で入院していたニューヨークの病院に会いに行きました。国王はこう言いました『(イランが)なぜ、こうなったんだ?』」
フランク・カールーチ「国王の立場は絶望的でした。アメリカも現実的な対応をせざるを得なくなりました。失敗した政権にしがみ付いているワケにはいかないのです。」
カーター大統領(当時)「他国の指導者に誰がなろうとも内政干渉をすることは、我が国の政策に反します。かつてベトナムで忌わしい失敗をしました。同じような無責任な行動はイランでは取りません。」と記者会見で釈明。
ロバート・ゲイツ「カーターは強靭さと、愚直さを併せ持つ興味深い性格で、ほとんど情緒不安定ともいえます。ソビエトを例に取ってみても、アフガニスタン侵攻があるまで、どのように対処すべきか決定できませんでした。」
<ソビエトのアフガニスタン侵攻>
ソビエト軍の動きに対して、CIAから何度も警告されたにも関わらず、カーターはソビエトとの緊張緩和プロセスを進めるため、譲歩を重ねていた。
ミルトン・バーデン「私の知る限りでは、1979年ごろのソビエト共産党政治局は全員、変わり者か酔っ払いで、非常に危険な考えを持っていました。共産党政治局は致命的なミスを冒す寸前でした。そして12月12日、彼らはアフガニスタン侵攻の命令書にサインしました。」
ロバート・ゲイツ「アフガニスタン侵攻の準備がされ、部隊が配備されたと指摘しましたが、本当に攻め込むとは思っていませんでした。しかし、少なくとも政府はソビエトが攻撃能力を持っていて、いつでも侵攻できる状態にあったことを知っていたのです。」
スタンスフィールド・ターナー「我々はソビエトがアフガニスタン侵攻の準備をしていたことは知っていたので、驚きはしませんでしたが、実際に侵攻に踏み切るとは思ってもいませんでした。」
イラン革命の時の失敗で、カーター大統領はCIAの戦略と情報収集能力に疑問を抱いていた。
ターナー長官は局長や現地職員を含むCIA職員600人以上を解雇し、CIAの解体を始めた。
ミルトン・バーデン「ターナーはCIAをバラバラにしました。何でも削減、削減でした。」
元CIA職員(中東担当) ロバート・ベア「ターナーは何百人も解雇したり、引退させたりしました。貴重な人材を次々に削減したのです。長年活躍した仕事のできるベテランばかり。」
ミルトン・バーデン「特に秘密作戦部の人間を多数、追い出しました。」
フランク・カールーチ「600人もの解雇は多すぎました。」
ロバート・ベア「50年代から何年もかけてきたものが崩れてしまったのです。」
ミルトン・バーデン「CIAにとって最早、無用な人だったかもしれません。しかし、ターナー自身もCIAのためにはなりませんでした。実際、彼の世界観は欠点だらけでした。」
スタンスフィールド・ターナー「誤った判断だったかも知れません。」
ロバート・ベア「そこが問題です。ターナーやヘルムズは目の前のモノしか見えなかった。」
ウィリアム・ヘイグ「ターナーはただ言われたとおりにやっただけです。人員削減を行い、技術的な基礎を築くように言われたから、それをやっただけなんです。彼の責任ではありません。大統領の責任です。」
ミルトン・バーデン「1979/12、ソビエト軍のアフガニスタン侵攻で、カーターはターナーは言った『CIAは何とかしろ』、ターナーの答えはこうでした『なんですって!人材がいませんよ』」
ソビエト軍アフガニスタン侵攻 (1972/12/24)
カーターがブレジネフに抱いていた幻想は、79年のアフガニスタン侵攻で崩れた。
ソビエトの目的を知ったとき、現実の世界を思い知しらされた。
それから間もなくカーターは、CIAにアフガニスタンの反乱軍を武装させてソビエトと戦わせるように指示をした。
ミルトン・バーデン「79年のクリスマス、ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻したとき、一番驚いたのはカーターです。」
フランク・カールーチ「カーターは共産主義に対する経験に乏しかった、我々CIAはソビエトのアフガニスタン侵攻の可能性を度々警告していたのです。カーターは本当に驚いていました。」
<CIAはタリバンの基礎を作った>
カーター大統領(当時)「このような罪を犯したソビエトを、世界は絶対に許さないでしょう。」
スタンスフィールド・ターナー「カーター大統領はアフガニスタン侵攻という露骨な行為を目の前にして、ソビエトに対する見方を変えました。」
ミルトン・バーデン「ブレジネフを信頼していたカーターはうろたえました。ブレジネフはカーターは何もしないと思い、アフガニスタンにドカーン!カーターはマサカ...」
ロバート・ゲイツ「ソビエトはカーターの別の側面をちゃんと見てました。ほとんどのアメリカ国民が気が付かなかった一面、強靭さです。」
スタンスフィールド・ターナー「(カーターは悩んでいた)我々に選択肢は無いのか。ソビエトがアフガニスタン全土を制圧するのを黙って見ているのか。」
チャールズ・コーガン「大統領は考えを変え、アフガニスタンのムジャヒディンを強力な武器で支援することに同意します。侵攻が12/24・27、パキスタン経由での最初の武器到着が1/10、すばやい対応でした。」
スタンスフィールド・ターナー「カーター政権はCIAを通して支援を始めました。」
ミルトン・バーデン「CIAはソビエトに抵抗する組織と極秘の同盟関係を築きました。そして10年以上にも及ぶ悲劇を生みました。」
リチャード・カー「79年から80年代にかけては我々の目的は明確でした。ソビエト軍をアフガニスタンから追い出すことです。」
スタンスフィールド・ターナー「79年当時には予測もつきませんでした。アフガニスタンを侵攻したソビエト軍を破るために我々が武器を提供した相手がタリバンという恐ろしいものに変わっていくなどとは。」
ジェゼフ・トレント「我々がタリバンを、この恐ろしいイスラム原理主義過激派の軍隊を作り出したのです。自分たちが何をしているのかも、イスラム世界の複雑さも理解していなかったのです。」
<カーターを再選させないために「アメリカ大使館員人質救出作戦を阻止」が仕組まれた>
カーターは他にも危機を抱えていた。
ソビエトのアフガニスタン侵攻の1月前、イランのテヘランで起きた「アメリカ大使館員人質事件(197911/4)」だ。
この事件と救出作戦の失敗がカーターの政治生命を絶つことになった。
大統領選挙の最大のライバルがロナルド・レーガンだった。
ロナルド・レーガン(当時)「政府の外交政策が人質事件を発生させたのです。解決に時間がかかっているのはアメリカの恥、不名誉です。」と、選挙活動で強調。
ミルトン・バーデン「カーターはテヘランの人質事件で完全に消耗してしまいました。
カーターは大統領選の前に、人質事件を解決するために、イラン政府と秘密交渉を始めた。
ホワイトハウス内の何者かが、レーガン陣営に秘密を流していた。
ウィリアム・クワンド「我々はカーターが選挙前に、人質を解放させるために取引していたことを知っていました。共和党はこの情報を手に入れ、もしカーターが人質を解放することに成功したら、勝ち目は無いことに気が付き、阻止しようとしました。カーターは選挙の2週間前にイラン側から交渉打ち切りを告げられました。」
ジェゼフ・トレント「交渉を打ち切られたのは、国家安全保障会議のスタッフがレーガン選挙運動本部に情報を流したからです。レーガンを大統領に当選させ、カーターを再選させないために諜報機関が使われたのです。」
カールーチCIA副長官が辞任しレーガン陣営に加わり、国家安全保障会議のゲイツも続いた。
ジェゼフ・トレント「ゲイツ、カールーチ。ジミー・カーターのために働いていた人たちが、偶然ですよ。カーターの人質作戦に関わっていた全員がレーガンのために働くことになったのです。」
ロバート・ゲイツ「私はカーターのいるホワイトハウスから出たいと思っていました。CIAの分析官に戻りたかったからです。」
フランク・カールーチ「政府の仕事を辞めると決めていました。別にカーターを捨てたわけではありません。ゲイツも同じはずです。」
ロバート・ゲイツ「正直言ってカーター政権にはウンザリしていました。」
ジェゼフ・トレント「レーガンが政権に就き、皆、戻ってきました。」
<人質事件は、共和党とCIAとホメイニ勢力との結託>
人質はカーターがレーガンに政権を引き渡したその日、1981/1/20に解放された。
ロバート・ゲイツ「共和党は全く関与していません。あくまでイラン側の決定でした。カーターが大統領執務室を出るまで、人質を解放しないと決めていたのです。」
フランク・カールーチ「何も無かったと思いますよ。共和党とホメイニ勢力との間に取引は無かった。それは確かです。」
ロバート・ゲイツ「陰謀説が噂されましたが、それは違います。」
10年後、カーターはテレビで人質解放の舞台裏を語った。
カーター(当時)「当時、ホメイニの下で働いていた、イランのバニサドル大統領は、「取引が成立した」という声明を何度も出しています。」と、CIAの裏取引を暗に示した。
ウィリアム・クワンド「この件に深く関わっていたのはレーガンの選挙参謀ケーシーでした。当時、ヨーロッパを訪問中だったケーシーの役割は長い間、ナゾでした。選挙の後、彼はCIA長官になったのです。
<ウィリアム・ケーシーCIA長官>
レーガンはホワイトハウスに入る前から、ケーシーにホワイトハウスの重要な役割を与えようと決めていた。
レーガン大統領「あなた(ウィリアム・ケーシー)には世界を注意深く見守って欲しい。世界征服をもくろむものはあなたの手で潰されるでしょう。」と演説。
ケーシーはレーガンの選挙戦に大きく貢献した。
レーガンの勝利を確実にするために、自らの力と資金をフルに使い、巧妙な大統領運動を展開した。
ニューヨーク証券取引委員会の委員長だったケーシーの事業活動はレーガンに巨万の富をもたらした。
また、外交に関しては限られた知識しか持っていなかった(外交能力の欠如していた)レーガンは、ケーシーに国家の新しい方向を決めるための自由な裁量を与えた。
CIAを去る前に、ターナー長官は次期大統領レーガンに状況説明を行った。
<CIA情報に全く興味が無かった(外交的に無能な)レーガン>
スタンスフィールド・ターナー「次期大統領の所に行きました。私の記憶では副大統領ジョージ・(ハーバート・ウォーカー・)ブッシュはいませんでした。そして説明しました。」
ジェゼフ・トレント「状況説明はソビエトのミサイルはここに、地下ミサイル発射台の閉鎖は--など。詳細で長いものでした。レーガンは立ち上がると、ネクタイを緩め、暑いなと窓を開け、コーヒーは?何か飲み物は?と訪ねた。まったく興味が無かったのです。」
スタンスフィールド・ターナー「質問もされましたが、何一つ、鋭いモノはありませんでした。」
<死のビジネスマン・ケーシーCIA長官に操られるレーガン政権>
長官となったケーシーはCIAを強化。前任のターナーが削減した役職のほとんどを復活。CIAの秘密工作は活発になった。
ミルトン・バーデン「ウィリアム・ケーシーは、50年代のアレン・ダレス以来、最強のCIA長官でした。
フランク・カールーチ「彼は大統領と深い関係を保っていました。大統領の信頼を盾に強大な権力を手にしたのです。」
元CIAテロ対策本部長(1986〜89) デュアン・クラリッジ「電話で大統領をロニーと呼んでいました。」
ロバート・スティール「ケーシーは非常にユニークな存在でした。CIA長官でしたが、国務長官、国防長官、そして合衆国大統領と同等の影響力を持っていたからです。」
ジェゼフ・トレント「ケーシーは国務長官になりたかったのですがなれませんでした。議会の承認を得られなかったのです。議会の選んだのはヘイグでした。」
元国務長官(1981〜82)アレクサンダー・ヘイグ「ケーシーは秘密工作(の効果)を妄信的に信じていました。でも、経験はまったくありませんでした。私はCIAでその経験があったので用心し、警戒していました。」
<ニカラグアのサンディニスタ政権潰し 過激派組織コントラへの支援>
ケーシーの最初の目標は、ソモザ軍事政権崩壊(1979/6)後、サンディニスタが政権を握っているニカラグアにアメリカの影響力を取り戻すことだった。
ジェゼフ・トレント「ソモザはCIAの落第生でした。小心者で実にひどい男でした。彼もラテンアメリカやアフリカのたくさんの独裁者と同様、何年間もCIAから金をもらっていました。我々は彼を利用していたのです。必用だったからです。悪いやつを雇って金を払い、我々の(CIA)の代わりにやらせる。そういう考え方でした。ビジネスのためです。」
デュアン・クラリッジ「ある日、夜の7時ごろだったと思いますが、私はいつもどおりポトマック川の辺でケーシーに会いました。そして彼にサンディニスタ政権に対処する政府とCIAの解決策を見つけたと言いました。」
ジェゼフ・トレント「サンディニスタ対策は、ケーシーが強化したCIA秘密作戦部で作られました。」
デュアン・クラリッジ「チリでのクーデターは成功しましたが、ニカラグアではまだ何の方策もとっていませんでした。そこでホンジェラスとニカラグア国境に500人ほど(CIA工作員を)送り込み、エルサルバドルやその他の地域への武器輸送を絶つゲリラ作戦を展開しました。そして(ニカラグアに)不安定な状況を作り出そうとしたのです。」
レーガン政権の時、ケーシー長官が率いるCIAは、再び表舞台に立ち、長い間、緊張が続いた中央アメリカで、活発な工作活動を展開し始めた。
ニカラグアでは反政府過激派組織「コントラ」を支援し、サンディニスタ政権を苦しめ、エルサルバドルとホンジェラスでは、秘密工作を活発化させた。
そして中央アメリカにはおびただしい死体の山が築かれた。
デュアン・クラリッジ「秘密工作は単に外交政策の延長だと思います。戦争もそうです。人類は昔から秘密工作を行ってきました。」
ミルトン・バーデン「ケーシーは何かと議論の的になった長官でした。最高の長官であり、最悪の長官でした。CIAと議会の関係を最悪にしたからです。」
<イラン・コントラ事件>
イラン・コントラ事件は1986/11に始まった。
議会は、ニカラグアのゲリラへ援助することを固く禁じていた。
しかし、CIAはイランへの武器売却に関与し、そこで得た3000万ドルをコントラへの資金援助に回した。
CIAの秘密工作はすべて大統領の承認が必要だった。
デュアン・クラリッジ「大統領が知らなかったって?もちろん、知っていましたよ。ワシントンで知らない人はいませんでした。パーティに行けば、誰もが知っていましたよ。」
ミルトン・バーデン「イラン・コントラ事件で、CIAはオシマイ」
イラン・コントラ事件に関し開かれた議会で、(当時)議長が、CIAが国防省から合法的に武器を入手したのであれば、法律で規制された国にCIAが武器を売れる。正当な料金が支払われれば、イランに直接売却できる。そうスミス氏が判断したのを覚えていますか?との問いに、国家安全保障会議 事務官 オリバー・ノース中佐は(当時)「はい」
デュアン・クラリッジ「イランに武器を売却し、利益を得、その金をコントラに渡すのが違法なのですか?」
さらに議会では、(当時)議長が、ケーシーCIA長官にその事実を話したとき....と質問をしようとした時、オリバー・ノース(当時)「議長。私はそれについて、今、この場でお話します。私は故意に議会を惑わしました。」委員会で?「委員会でです。」面と向かって?「そうです。」コントラへの支援活動について、ウソの証言を行ったのですか?「その通りです。」
ミルトン・バーデン「CIAに対する攻撃は以前からありました。特にラテンアメリカの活動についてはよく非難されていました。ケーシーが問題にブツかったのも中央アメリカでした。ラテンアメリカで展開されたラテンアメリカの一件です。」
しかし、ケーシーは3年前から、紛争が続いているアフガニスタンで、自分の戦略を試すチャンスを得る。
CIAはソビエトを泥沼の戦争に引き入れ、アフガニスタンから追い出すことに成功した。
ミルトン・バーデン「ケーシーは85年にアフガニスタンに関する作戦を変更しました。カーター前大統領の計画はソビエトを苦しめ、困難に陥れることでした。ケーシーはレーガンに『ソビエトを追い出せ』という大統領命令に署名させました。昔からの友人であるケーシーが私のところへ来て、『アフガニスタンへ行け。そして勝ってこい。:』と言ったのです。」
スタインフィールド・ターナー「ゲリラは優秀で12万人のソビエト軍を追い出しました。そこまでやるとは期待してませんでした。なぜ勝てたのか...」
元KGB(アメリカ担当責任者) オルグ・カルーギン「重要なのは、彼らが大規模な軍事支援を受けていたことです。例えばスティンガーミサイルは我がソビエト空軍の行動を制限しました。多くのヘリコプターが落とされ低空飛行を恐れるようになりました。CIAからの武器だったのです。」
デュアン・クラリッジ「スティンガーが無かったら、ソビエトが勝っていたでしょう。」
CIAはカーター政権の時代から、アフガニスタンのムジャヒディンに武器や資金を提供していた。
しかし、ケーシー長官になってからは、過激なイスラムゲリラ(テロリスト)組織にまで武器まで提供し始めた。
対空ミサイルなどの兵器は、ソビエトへの攻撃だけに使うという約束だった。
10年後、ソビエトは撤退、しかし、CIAが渡した武器は残った。
そして、このことはアフガニスタンで当時から現在まで、数十万人の死体を作り上げた。
ミルトン・バーデン「年間10億ドル。最終的には30億ドルがアフガニスタンの作戦に使われました。冷戦でアメリカ市民の税金がいくら使われたかご存知ですか?13兆ドルです。ゼロがいくつなのか?私にはわかりません。それを30億ドルで片付けたのですから、お買い得です。」
リチャード・カー「作戦は成功。しかし、過激な武装グループが誕生し、新たな問題が起きてきました。」
オルグ・カルーギン「アメリカとCIAがアフガニスタンのムジャヒディンに武器を提供し、使い方を教えたのです。ビンラディンもその時、武器を受取った兵士の一人でした。」
ロバート・ゲイツ「当時取引していた相手と、その思想を受け継いだグループが、現代、我々が直面しているグループなのです。」
ジム・ホーグランド「予想もできない逆襲です。CIAはソビエトを痛めつけ、倒すために彼らを援助しました。しかし、CIAは自分たちが支援している人々の敵は、ソビエトだけではないということを全く理解していませんでした。」
ミルトン・バーデン「89年ソビエトの撤退の後、”世界は”アフガニスタンを忘れてしまいました。”CIAは”ではありません。CIAは与えられた任務を追行しただけです。」
リチャード・カー「我々は引き続き、アフガニスタンを見守るべきだと考えていましたが、アメリカはそこで手を引いたのです。アフガニスタンが混乱するのを放ったまま。」
ミルトン・バーデン「アフガニスタンが混乱するのを放っておいたのです。」
ジェゼフ・トレント「アメリカの無謀で愚かな政策がアフガニスタンを破壊し、テロリストを作り出したのです。今や世界はテロの脅威にさらされています。ビンラディンのような人間を作ったのは自分たちだということを、よく理解しなければなりません。」」
<ソビエトの崩壊を招いたアフガニスタン戦争のコスト>
ソビエトのアフガニスタン撤退(1989/2)
ソビエトはCIAによって泥沼の戦いに引きずりこまれた。
10年間に渡るアフガニスタン戦争はソビエトを疲弊させた。
しかし、CIAがソビエトを過大評価していたため、ソビエトが崩壊することは予測していなかった。
ロバート・ゲイツ「アフガニスタンでの犠牲者が増すに従い、戦争の難しさも増しました。ベトナムのときと同じ状況が、ソビエト国内でも見られるようになったのです。それが、ソビエト崩壊を呼び起こす大きな要因になったと思います。」
ウィリアム・ウェブスター「戦争の費用が、ソビエト国内でどのほどの割合を占めるにおか調査しましたが、結果は正確ではありませんでした。」
フランク・カールーチ「ソビエトの軍事予算はGNPの20%だと話したことを覚えています。しかし実際はもっと高かったのです。40%くらいだったでしょう。」
チャールズ・コーガン「正確に把握すべきだったソビエトの経済力を過小評価していました。」
リチャード・カー「ミサイルの数を水増しして考えていました。
スタンスフィールド・ターナー「ソビエトは3万発の核弾頭を持っている国だから、経済がどんどん悪くなっていると言っても説得力がありませんでした。」
元CIA支局長(1992〜96)リチャード・ホルム「当時、ソビエトの関係者と何度も話す機会がありました。どうして我々はソビエトが強いと信じているのだろうと、疑問を感じていました。政治家や国防総省が武器の問題に関わり始めると話がどんどん大きくなるのです。」
レイキャビックでの米ソ首脳会談 (1986/10)
ソビエトの指導者ゴルバチョフとレーガン大統領が会談したとき、ソビエトはすでにl崩壊寸前だった。
フランク・カールーチ「私はゴルバチョフを信用していませんでした。彼のことをかなり気に入っていたレーガン大統領に、『ゴルバチョフはソビエト最後の共産主義指導者です。弱体している共産主義体制を立て直すために大統領になったのです』と言ったのを覚えています。」
ロバート・ゲイツ「ゴルバチョフはスターリン主義に戻る気が無かったのは確かです。しかし、代わりとなるものは、ありませんでした。」
フランク・カールーチ「グラスノスチやペレストロイカはコントロールできない状態でした。でも、体制そのものが崩壊するとはゴルバチョフも予想できませんでした。」
ロバート・ゲイツ「85年から86年ごろ、私たちはある心配をしていました。ゴルバチョフが進めている政治改革を過小評価しているのではないかと思ったのです。」
1年後の1987年、レーガンはゴルバチョフに挑戦した。
レーガン大統領は「ゴルバチョフ書記長!ここに来てこの壁を崩しなさい。」と西ベルリンの壁の前で、演説した。
フランク・カールーチ「予測できた人はだれもいません。レーガンがこの壁を崩しなさいと言ったとき、すぐ横にいましたが、名言だが、そんなことは起こるワケがないと思っていました。」
スタインフィールド・ターナー「ソビエトは大きく変わり始めました。しかし、こんなことが起きるとは。」
アレクサンダー・ヘイグ「レーガンが冷戦に勝ったというなら、それは歴史を理解していません。例戦に勝ったのはレーガンでもアメリカの防衛力でもなく、彼らの政治システム内部の矛盾する原理、マルクス・レーニン主義そのものがソビエトに終わりをもたらしたのです。」
<ソビエトの自滅 冷戦の終結>
(パパ・ブッシュ)ジョージ・H・Wブッシュはソビエト崩壊当時、大統領だった。
CIA長官を務めたブッシュはソビエト崩壊と、冷戦の終焉を信じることが出来なかった。
ロバート・ゲイツ「当時、国家安全保障会議 副顧問だった私は、CIAの報告から書いたメモを大統領に送りました。1989年6月のことです。『ゴルバチョフの余命はあと1〜2年という可能性がある。彼が死亡したときの対応だけでなく、ソビエトが崩壊したときの対応策も立てておくべきだと書きました。」
元CIA職員(ヨーロッパ・中東担当) ピーター・アーネスト「ソビエト崩壊を予期できなかったという事実、諜報機関は占いのために巨額な予算を使っているのではないのだ。」
スタインフィールド・ターナー「ソビエトが政治的問題だけではなく、特に経済面で深刻な問題を抱えていることはわかっていました。しかし、それがソビエトのシステム全体を破壊していたことは、我々の想像を遥かに越えていました。」
ミルトン・バーデン「誰も予測できませんでした。でも、あのときベルリンの壁が崩れると言っても誰も信じなかったでしょう。」
リチャード・カー「CIAの分析官がソビエトの崩壊を予測していたかというと、答えはノーです。」
元CIAテロ対策本部長(1986〜89)デュアン・クラリッジ「人は今になって色々言いたがりますが、確かなのは、まったくの驚きだったことです。」
ミルトン・バーデン「当時、CIAの東ドイツ担当だった私も驚きましたが、もっと驚いたのは東ドイツのリーダーだったデリック・ホーネッカーと思います。」
ピーター・アーネスト「すばらしい洞察力を誇るソビエトの諜報機関KGBでさえも、ソビエト崩壊を予測できなかったのです。ソビエトの生存に彼らの存在そのものが係っていたにも関わらすです。」
オルグ・カルーギン「CIAはソビエトの崩壊を予測できませんでしたが、KBG職員で国家安全担当の幹部である私でさえ、予測できなかったのです。ソビエトにいる我々ですら、体制の終わりが信じられなかったのです。」
ピーター・アーネスト「私のように人生のほとんどを冷戦で過ごした者にとって、正に青天の霹靂(へきれき)でした。変化を予測するのが困難な時代だったのです。冷戦はいつまでも続くものだと思っていました。89年11月ラングレーにあるCIA本部で壁が崩れるのを見、そして、ソビエトが崩壊して、91年に終わりが宣告されるのを見たのは信じられない経験でした。ろうそくの火が消えるように、帝国が消滅してしまったのです。」
<ソビエト崩壊によって厄介者になったCIA>
ベルリンの壁崩壊 (1989/11/9)
ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが統一への道が開かれた。
東ヨーロッパ諸国はひとつひとつ共産主義政権を追い出しいていった。
冷戦が終結した。
ピーター・アーネスト「第二次世界大戦が終わったときのようでした。皆、疲れ果てていました。」
元CIA長官(1993〜95) ジェームズ・ウールジー「我々、西側が冷戦に勝ちました。これで問題は片付いた。すべてがうまくいく。そう思い、防衛費も大幅に削減されました。」
フランク・カールーチ「諜報機関はもう必要無い。誰もがそう思いました。」
デュアン・クラリッジ「CIAはいらなくなったのです。」
フランク・カールーチ「優先順位が劇的に変化しました。それまではソビエトが最優先課題であり、標的でした。CIA設立の根本的理由です。」
大統領特別顧問 リチャード・ハース(当時)「しかし、諜報機関の職員を別のセクションに移動させるなど、簡単にはできません。」
アレクサンダー・ヘイグ「彼らはソビエト崩壊でとても不機嫌になりました。敵を失ったからです。」
リチャード・ホルム「冷戦の終焉は我々に変化を余儀なくさせます。進むべき道を決めなければなりません。」
最大の敵を失い、その存在理由をも無くしたCIAは無力な組織となった。
その輝かしい過去を語り伝えるため、昔を知るCIA職員がラングレーのCIA本部に呼び戻された。
広報官「子供たちにCIAを理解してもらうためです。」
ミルトン・バーデン「物語は終わりです。ゲームは終わったのです。ソビエトは向こう側、アメリカはこっち。戦力を尽くし世界を奪い合った。まるでチェスのようなゲームは、91年に幕を閉じました。コマを多く取った我々が勝ち、向こう側は負けました。」
ソビエト崩壊の数ヵ月後、コルビー元CIA長官と、カルーギン元KGBアメリカ担当責任者が、ワシントンで開かれたビデオゲームの発売記念パーティに招かれた。
ゲームのタイトルは『SPYCRAFT(諜報技術)』